歴史と自然のまち「亀岡」

亀岡市に住みたい!
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亀岡市出身の有名人

嵐山から程近い亀岡市は多くの有名人を輩出しています。

明智光慶(あけちみつよし)

永禄12年(1569年)- 天正10年6月15日(1582年7月4日)

明智光慶は、明智光秀の長男で、安土桃山時代の武将です。本姓は源氏ですが、家系は清和源氏の摂津源氏系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏です。実在は確認されていますが光慶が歴史に記されるのは、光秀による丹波国・亀山城(京都府亀岡市)の築城前後であり、目立った戦功や功績は明らかにはなっていません。イエズス会の記録には、「ヨーロッパの王子のような優美な人」と記されています。本能寺の変のときには亀山城にいて、二条御所騒動で織田信忠が死去すると、近江国・坂本城(滋賀県大津市)に移り西国防備にあたりました。しかし、山崎の戦いで父・光秀が敗走中討たれると、中川清秀、高山右近らの攻撃に持ちこたえる事が出来ず満14歳で自害しました。その最期の地が亀岡市内にる亀山城との史料があります。

荒賀知子(あらがともこ)

荒賀知子は亀岡市出身の元空手家です。空手家一家に生まれ、父の道場に3歳で入門しました。中学高校時代から才能を発揮しだし、高校1年生で史上最年少のナショナルチーム・メンバーとなった経歴を持ちます。2004年に世界空手道選手権で優勝し、2006年同大会で史上三人目の連覇を達成しました。また、2006年のアジア大会でも金メダルを獲得しています。2008年、世界空手道選手権大会で準々決勝敗退を最後に現役を引退しました。

主な戦績

  • 2004年 世界空手道選手権大会53kg級優勝
  • 2006年 世界空手道選手権大会53kg級優勝
  • 2006年 アジア競技大会53kg級優勝
自然と住まう町

石田梅岩(いしだばいがん)

貞享2年9月15日(1685年10月12日)- 延享元年9月24日(1744年10月29日)

石田梅岩は江戸時代の思想家・倫理学者で、石門心学の開祖です。丹波国桑田郡東懸村(現:亀岡市)に百姓の次男として生まれました。1695年、11歳で呉服屋に丁稚奉公に出て、その後一旦故郷である亀岡に帰りました。1707年、23歳の時に再び奉公に出て働き、1727年に出逢った在家の仏教者・小栗了雲に師事して思想家への道を歩み始めます。45歳の時に借家の自宅で無料講座を開き、後に『石門心学』と呼ばれる思想を教えました。「学問とは心を尽くし性を知る」という内容で、心が自然と一体になり秩序をかたちづくる性理の学なのだそうです。梅岩自身はこれを『性学』と呼んでいましたが手島堵庵のなどの門弟たちによって『心学』という名称が普及しました。当初は男子のみを対象としていた講座ですが、聴講を望む女性が多かったことから、障子越しの別室での拝聴を許したそうです。1744年、60歳で死去しました。出身地である亀岡市の道の駅「ガレリア亀岡」には石田梅岩記念施設「梅岩塾」が設置されるなど、今も亀岡の人々に親しまれている人物です。

岩村俊哉(いわむらとしや)

岩村俊哉は亀岡市出身の漫画家です。代表作は「月刊少年ガンガンに掲載された「電撃ドクターモアイくん」で、テンポの良いギャグが特徴の漫画を多く書いています。。高校生の頃から漫画家を目指していて、「週刊少年サンデー」ぼ新人大賞に応募し、佳作に入ったのがきっかけで漫画界に入りました。漫画家・石田まさよしのアシスタントを経て、当時のアシスタント仲間に誘われて「月刊少年キャプテン」に投稿したところ連載が決まり、デビューとなりました。デビュー作は「あいつがSHOOT」です。以後は「コミックボンボン」でガンダムの漫画を描くなど、多くの雑誌で執筆しています。現在は総合学園ヒューマンアカデミ東京校のマンガカレッジで非常勤講師を務め、活躍の場を広げています。

川勝堅一(かわかつけんいち)

1892年-1979年

川勝堅一は亀岡市生まれの実業家・美術品収集家です。1907年、京都府富本高等小学校卒業後、翌年に京都高島屋に就職しました。1919年、高島屋東京支店の宣伝部長となりました。1927年、高島屋大阪長堀支店支配人を経て、1933年には高島屋の総支配人に任命されます。1942年、高島屋の常務取締役にまで出世し、戦後1957年には横浜高島屋専務取締役となり、その経営で大変重要な地位を占めました。この高島屋在職中に、商工省工芸審査委員、同省貿易局輸出工芸振興展審査委員、通産省デザイン奨励審議会委員などを歴任し、1963年、工芸デザイン育成の功績により藍綬褒章を受けています。また陶芸家の河井寛次郎と親交があり、彼の作品を内緒で、1937年のパリ万国博覧会と1957年のミラノ・トリエンナーレ国際工芸展に出品し、いずれもグランプリを受賞したというエピソードは有名です。川勝が所蔵していた河井寛次郎の代表的な作品425点が、現在京都国立近代美術館に「川勝コレクション」として所蔵されています。

川勝正治(かわかつまさはる)

川勝正治は亀岡市出身の生物学者です。専門はプラナリア類の生態・分布・分類・系統に関する研究です。1953年、京都学芸大学(現・京都教育大学)を卒業しました。その後、京都学芸大学助手となり、プラナリア類の研究を始めます。1961年、日本列島産淡水生三岐腸類の垂直分布現象の解析に関する論文で、北海道大学から理学博士の学位を受けました。同年4月から藤女子大学に移り、藤女子大学教授となりました(在職:1961年~1999年)。以降、三岐腸類の分類学的研究を世界的規模で行い、多数の論文を発表しています。1993年、日本生物地理学会賞(次席)を受賞。2006年、川勝のプラナリア類標本(プレパラートと液浸標本、計24,000点ほど)は、アムステルダム大学動物博物館に寄贈され、世界の本動物群研究者の利用に供されています。

佐藤征史(さとうまさし)

佐藤征史はロックバンド・くるりのベーシストです。立命館大学高等学校に入学し、くるりのボーカルである岸田繁と出会います。高校3年のときに友人たちとバンドを組み、その時初めてベースを握ったそうです。立命館大学法学部に入学し、大学の音楽サークルであるロックコミューンに入ります。そこで岸田とくるりの前身となるバンドを組みました。1996年に岸田からコンテスト出場に誘われ、くるりの元ドラマー・森信行と三人で参加し、優勝しました。1998年にはデビューシングルである「東京」をリリースしメジャーデビューを果たします。2003年にはくるり主宰のレーベル「NOISE McCARTNEY RECORDS」を立ち上げ、社長を務めています。

高木正勝(たかぎまさかつ)

高木正勝は亀岡市出身の音楽家・映像作家です。自ら撮影した映像の加工やアニメーションによる映像制作と、長く親しんでいるピアノやコンピュータを使った音楽制作の両方を手掛けるアーティストです。国内外のレーベルからのCDやDVDリリース、美術館での展覧会や世界各地でのコンサートなど、分野に限定されない多様な活動を展開しています。オリジナル作品制作だけでなく、デヴィッド・シルヴィアンのワールドツアーへの参加、UAやYUKIのミュージック・ビデオの演出や、芸術人類学研究所、理化学研究所、Audi、NOKIAとの共同制作など、コラボレーション作品も多数あり、2009年にはNewsweek日本版で、「世界が尊敬する日本人100人」の1人に選ばれるなど、世界的な注目を集めるアーティストです。

高岩竜一(たかいわたつひと)

高岩竜一は亀岡市出身のプロレスラーです。1992年、専門学校在学中に新日本プロレスの入団テストに合格し同年にデビューしました。ジュニアヘビー級を主戦場とし、1998年8月8日には初代IWGPジュニアタッグ王座を同期の大谷晋二郎と共に獲得しました。ニックネームは「ジュニアの超竜」で、ジュニアヘビーを超えたパワーファイトがスコット・ノートンを彷彿させるため、週刊ゴング編集長の金沢克彦が「竜一」と引っかけて、そう名付けたのだそうです。2001年に大谷と共にZERO-ONEに移籍しました。2006年12月23日、NOAH・ディファ有明大会で杉浦貴を破り、5年ぶりにGHCジュニアヘビー級王座を獲得します。2007年2月18日、AWA世界ジュニアヘビー級とのダブルタイトル戦で日高郁人を破り2冠王となりました。2008年12月17日の新宿大会後に退団を表明しZERO1-MAX側も了承し契約が解除されフリーとなっています。現在も様々な団体のリングに上がっており、格闘技ジム「S-KEEP」でインストラクターとしても働いています。得意技は「高岩ドリラー」「デスバレードライバー」など。

丹波康頼(たんばのやすより)

延喜12年(912年) - 長徳元年4月19日(995年5月21日)

丹波康頼は平安時代の医家で、亀岡市の出身ではないかといわれている人物です。永観2年(984年)に「医心方」全30巻を編集し、朝廷に献上しました。これは唐代の医書を参考に当時の医学全般の知識を網羅したものだったそうです。現存する日本最古の医学書といわれています。こうした功績が評価され、朝廷から丹波宿禰姓を賜り、以来医家として続く丹波氏の祖となります。亀岡市下谷田町にある「医王谷」の地名は、康頼が住み、薬草を育てたとの言い伝えから付いた地名です。俳優の丹波哲郎は康頼の末裔にあたります。

中川小十郎(なかがわこじゅうろう)

慶応2年1月4日(1866年2月18日) - 1944年10月7日

中川小十郎は元貴族院議員、文部省官僚で、京都法政学校(現在の立命館大学)の創立者です。丹波国南桑田郡馬路村(現在の亀岡市馬路村)生まれです。1893年(明治26年)に文部省に入り、実業教育普及のために学科取調べに着手しました。二年後の1895年には、異例の速さで西園寺公望文部大臣秘書官に任命されます。その後京都帝国大学(現在の京都大学)の創設にかかわり、京都大学初代事務局長に取り立てられました。西園寺が日本女子大学の設立発起人を務めた際には、同大学の創立事務幹事長に就任し、文部省官僚として高等教育機関の設立に尽力したそうです。1897年には文部参事官に就任しますが、翌年西園寺が病気を理由に辞職すると、中川も官職を退官し実業家に転身します。その後「能力と意欲のある人に国として(教育の)機会を与えるべき」という教育理念を提唱し、1900年には現在の立命館大学である京都法政学校を創立しました。

花瀬めぐみ(はなせめぐみ)

花瀬めぐみ(本名:吉川めぐみ)は亀岡市出身の女優です。10代の頃から演劇に関心を持ち、高校生時代は演劇部に所属していました。卒業後は京都にて仲間たちと劇団を設立し、舞台活動を行っていました。21歳のときに上京すると、女優志望だったのですがボディバランスの良さを買われ、重にモデルとして活動を開始します。イラストが得意で、絵画・デザインのコンクールで様々な賞を獲得しています。2010年には亀岡市の観光大使に就任しています。

藤村信子(ふじむらのぶこ)

藤村信子は亀岡市出身の元陸上競技選手です。高校在学時までは短距離走専門の選手だったのですが、1984年大阪体育大学に入学し中距離走・長距離走のランナーへと転向しました。大学卒業後の1988年4月ダイハツ工業に入社し、5年後の1993年大阪国際女子マラソンで初マラソンに挑戦すると4位に入賞。同年8月の北海道マラソンでは、30度を超す猛暑の中レース前半から独走、終盤でペースが落ちたもののそのまま逃げ切って、フルマラソン初優勝を果たします。1994年1月の大阪国際女子マラソンでは、当時の日本女子最高記録となる2時間26分09秒をマークしたのですが、優勝した安部友恵と同タイムながらもわずかに及ばず2位。しかしこの成績が認められ、同年10月の広島アジア競技大会女子マラソン代表となります。そのアジア大会本番レースでは、同女子マラソン代表だった安部が欠場を表明し、日本女子は藤村ただ一人の出場となりますが、見事銅メダルを獲得します。1995年11月の東京国際女子マラソンで優勝し、1996年1月の大阪国際女子マラソンでアトランタ五輪代表入りを目指しましたが、結果は8位で念願の五輪選出にはなりませんでした。1998年1月の大阪国際女子マラソンでは15位に終わり、現役を引退。現在はランニング教室の講師としてのイベント活動を行うなど、指導者として活躍しています。

円山応挙(まるやまおうきょ)

享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日)

円山応挙は丹波国桑田郡穴太(現在の亀岡市)生まれの江戸時代中期の画家です。近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色です。農家の次男として生まれた応挙は10代の後半には京に出て、狩野探幽の流れを引く鶴沢派の画家・石田幽汀に弟子入りしました。明和3年(1766年)から応挙を名乗り始め、郷里穴太の金剛寺の壁画群は代表作として知られています。また「足のない幽霊」の絵を描き始めた人物とも言われており、「応挙の幽霊」という落語が作られるほど人々に親しまれていました。

山脇東洋(やまわきとうよう)

宝永2年12月18日(1706年2月1日)- 宝暦12年8月8日(1762年9月25日)

江戸時代の医学者で実験医学の先駆者である山脇東洋は、丹波国亀山の生まれです。医家清水家に生まれますが、享保11年(1726年)に父が門下の法眼山脇家の養子となり、1729年には家督を相続して法眼となる。後藤艮山から、理論よりも実践を重視する古医方を学び、延享3年(1746)には唐代の医学書『外台秘要方』を復刻します。カワウソの解剖から陰陽五行説に基づく人体の内景に疑問を抱き、1754年(宝暦4年)閏2月、京都所司代の許可を得て死刑囚の解剖、観察を行いました。宝暦9年(1759年)にはその成果を解剖図録『蔵志』として刊行。漢方医による五臓六腑説など、身体機能認識の誤謬を指摘しました。吉益東洞ら古医方においても人体解剖には抵抗が強かったため批判を浴びますが、国内初の人体解剖は蘭書の正確性を証明し、医学界に大きな影響を与えました。東洋の影響を受け、江戸では杉田玄白、前野良沢らがより正確性の高いオランダ医学書の翻訳に着手するなど、日本医学の近代化に大きく貢献した人物です。

吉見太一(よしみたいち)

亀岡市出身の吉見太一は元プロ野球選手です。京都成章高校に入学し正捕手を務めますが、1998年の第80回全国高等学校野球選手権大会決勝で、横浜高校の松坂大輔にノーヒット・ノーランを喫します。その後立命館大学に入学し「古田敦也2世」と呼ばれるなど、その強肩が注目されていました。卒業後、サンワード貿易に所属し、2006年ドラフト指名を受け西武ライオンズに入団。守備面に関しては高いレベルにありましたが、打撃面に課題を抱えていました。2010年に銀仁朗の故障を受け、初の開幕一軍スタートを果たします。4月1日の福岡ソフトバンクホークス戦にて初の一軍出場をしますが、10月29日、プロ通算無安打のままついに戦力外通告を受けます。11月4日に任意引退選手公示され、ブルペン捕手として球団に残りました。

樂吉左衞門(らくきちざえもん)十一代・慶入

文化14(1817年) - 明治35年(1902年)

樂吉左衞門は、千家十職の一つ、楽焼の茶碗を作る茶碗師の樂家が代々襲名している名称です。十一代の慶入が丹波国南桑田郡千歳村(現在の亀岡市千歳町)の生まれです。酒造業を営む小川直八の三男として生まれ、十代の婿養子として樂家に入ります。弘化2年(1845年)に家督を相続しました。明治維新後、茶道低迷期の中、旧大名家の華族に作品を納めるなどして家業維持に貢献した人物として知られています。

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